作:上 林 春 生



 このような釣りきってしまうフィッシングから,釣った後放すキャッチ&リ
リースが増えているとは言っても,魚に眼を白黒させるほど強い衝撃を与える
ことに変わりはない。その衝撃はDNAを書きかえるほどのものである。自然
を愛することを自負する人間なら,釣らない釣りというものをぼちぼち検討し
なければならない時期はきているということに気がつかなくては駄目だ。  

 人がする槍投げだって,最初は動物を的に投げ合っていただろうし,相手が
人間だったときもあるだろうが,今では,ただ投げる距離を競うだけである。
弓道だって,エアライフルだって皆射的場の同心円が標的だ。英国のキツネ狩
りでさえ最近は反対が叫ばれているのだ。狐を追う猟犬が狐を追うことを止め
だしたと魚仲間は聞いている。                     

 フィッシングがスポーツとして市民権を得るためにはいつまでも魚に流血の
惨事を与えているようでは駄目だ。オリンピックはおろか,町内対抗の運動会
でさえ取り上げられないというものだ。せいぜい,金魚釣りが余興として取り
上げられるに過ぎない。というものの,金魚だって釣りと言う無慈悲な暴力行
為に泣いているのだ。                         

 かって,道楽としての釣りというものは,釣れても釣れなくとも早々に竿を
しまい,ごろりと横になるか,その付近をぶらぶらしたものだった。竿をしま
うのが,早ければ早いほど尊敬もされ,信頼をも得たものだ。だから皆競って
竿をしまっていた。                          

 そう言う頃,早々に竿をしまい,ぶらつく内に葦原に人骨を見つけ,句を手
向け,酒を振り掛けてやったと言う話しがある。その夜,戸を叩く若い女性が
何か言いたげな口元で立っていた。家に入れ分けを聞くと,尋ねてきた女性は
昼間の葦原の人骨の主という。今日の思わぬ供養に幽霊に姿を変え参りました
。これで思い残すことなく彼の世へ旅立てると礼を述べに来たのだった。  

 うら若い女性の容貌はオーロール・クレマンかカトリーヌ・ドヌーブのよう
なとなると,当時ならバテレンの女幽霊などど騒がれ,話しが釣りを離れ,興
味がそれる恐れもあって,ここは八百屋おしちが上方へ逃がれた末路の姿とで
も想像してもらおう。                         

 おしちは横になった釣り人の腰などを揉みながら,江戸で半鐘を叩いていた
ときほど尻の熱いことはなかった,また,どのような経路を辿り,葦原で朽ち
てしまわねばならなかったか,と言う話しを聞かせていた。        

 釣り人は,ふんふんと相槌を打ちながら聞いていたが,朝方うとうとした間
に幽霊姿のおしちはいずこかへ立ち去った。これを見ていた,与太八が早速,
葦原へ釣りに出かけ,ひねった落ちを最後に誘い出すのが,後に落語「野ざら
し」として語られる。                         

 このようにニッポンの道楽としての釣りは古来ひたすらなフィッシングでは
なく,葦原の人骨を発見し,句を読み酒を手向けるなど,釣ることへのこだわ
りはとんと無く,釣りというものは手狭な我が家を出る口実にしか過ぎなかっ
たようだ。                              

 今どきの釣りと来た日には一尾でも魚を釣り上げなければ一族郎党へ顔向け
がしにくいと言わんばかりの形相でかかってくるから浅ましい。釣れぬやつほ
どしつこく釣り上げることにこだわり,しまいに目は血走り,頬をひくひくさ
せ,脂汗を顔面に浮かべ夕陽を浴びると,脂をぎらぎら照り返している。  

 その夕方に,私達は人の姿を水面に見ながら,一日最後の水浴びのときを過
ごすのだ。ああ,聖なる水浴び,今日も一日釣られずに終わったことを喜びな
がらの水浴び。                            


渓釣写真倶楽部